小さく産んで大きく育てる

腹帯 > 腹帯の効用

 江戸時代中期より一般庶民の間でも広く行われるようになってきた腹帯は、単なる妊娠の祝いや安産の祈りにとどまらず、さまざまな俗説を生んだ。その中で一番問題になったのは、胎児の大きくなるのを防ぐ、難産を予防することを意図してみぞおち付近で強く締め付けるといった着用法であった。このため、それ以後、賀川玄悦らの腹帯有害論(1965[ママ])、玄野龍貞らの無害論(1818)、佐々井玄敬、片倉元周らの折衷論(1775-1795)、平野重誠の改良論(1832)等、はなばなしい腹帯論争 が展開されてきた。明治以後も腹帯論争は繰り返されてきたが、論争の焦点は有害無害よりも、有用か無用かに移っていった。[‥.] 今日でも腹帯の是非論は終わっていない(6)。
 文化庁の調査にも次のような報告がある。山形県次年子では、腹帯を強く締めたので難産が多かったという。が、そのほかの多くの地域では、胎児が大きく育つのを防ぐ、小さく産んで大きく育てるというのである。和歌山県南部川村では、お産が軽くなるだけでなく、子どもが賢くなるように巻くのだと伝えている。この地では、腹帯は二本用意しておき、風呂に入るときもつけたまま入ったという。風呂に入ると、子ども(胎児)が肥えるといわれているためである。長野県南佐久では、夜、腹帯をしめ、日中労働の時は使用しないという、現在の使用方法とは異なる方法のあることを伝えている。[p.57-58]

 ここ数年間のうちに出版された出産指南書にも、腹帯の記載はふつうに登場する。かつ、その呪術的起源とともに、「是非論論争に決着がついていない」旨も、いっしょに記載されていたりする(!)。

それなんてポストモダン

 腹帯の用途には「身体の一部分を支える」──ブラジャーやテーピングに同じ──とか「お腹を冷やさない」などがあり、その限りで、それは(常識的に考えて)もっともらしいもの であるように思われる。ところが『お産の歴史 ―縄文時代から現代まで (集英社新書)』には、指一本も入らぬほどギチギチに巻き付けるような腹帯の用例が大量に登場する。つまり、この場合の目的は、「腹帯を使って子どもを 小さいままにする」というところにあるわけだ。


 これは ブラジャーとサラシ をどちらも「乳アテ」と呼んだ上で、その是非を問うているようなもので、甚だ無茶な「論争」であるように思われる。

実存に関わりのあるもの

  • 出典:実存思想協会 論文募集要綱

論文募集要項

内容

  • 実存に関わりのあるもの

応募資格

  • 実存思想協会会員(ただし、XXXX年度までの会費完納で、原則として公募論文で最近三年間に掲載されていないことを条件とする)

枚数

  • [以下略]
http://www11.ocn.ne.jp/~jitsuzon/invitation/paper.html

なるほど実存思想協会だ と、さすがに実存思想協会だ と、閲覧者を唸らせるだけの重みのあるフレーズだと言えよう。

フェミじゃないけど

澁谷知美さんのブログ「ゆるい日記」の2005年9月24日の記事から。
現在はブログ自体が(なぜか)なくなってしまっているので、Web アーカイブから引っ張ってきました。えーと・・・、仁義なき全文まるごと引用です ごめんなさい。クレームが付いたらコメントアウトいたします、ということでひとつ(^_^;

イラストは澁谷さんが書かれたのでしょうか?

(2005.09.24) フェミじゃなくたっていいよ、仲良くしよう

【1】

気が早いが、今年の流行語大賞には「ちょいモテ」が選ばれると思う。
もともと達成率の低い輩がハナから「ちょい」をめざしてもなんにも得るもんないよ! ということを松尾スズキがいっていたが、けだし箴言

しかし、それよりもよく聞くのが「私フェミニストじゃないけれど」という言葉です。流行ってんの?! ってぐらいよく聞きます。
あとには「やっぱり今の社会って男がトクになるようにできてるよね」てな言葉がつづく。それだけフェミ的な見方が世間に広まってきたということなんでしょう。というか、女子が男社会で働きはじめると、おのずと見方がフェミ的にならざるをえない。
フェミを自認している私に「私、フェミニストじゃないけれど」と話しかけてくれる時、そこには、あなたとなら問題を共有できると思うんだけど……というニュアンスがある。勝手な思いこみかもしれないけど、その「頼られている感じ」は、秘め事を明かしてもらったみたいで、とても嬉しい。
だが、この言葉は、そうであると思われてはかなわない程度に「フェミニスト」という「カースト」が汚れまくっていることをも示している。ふだん、決してあからさまに差別意識を表明しない心優しい女子の口から、この言葉がうっかり漏れでるとき、ああ、フェミってバカにされてんなぁ……と心底悲しい気持ちになるのである。

【2】

話は飛ぶけど、母と『30年のシスターフッド』を見た。リブを経験した女性たちの現在をつづる、面白くて元気になるドキュメンタリーである。
身内を褒めるのもなんだけど、私の母は、知的で優しく、バイタリティあふれる、非常にカッコいい人である。私が幼いときから呪文のように「自分で食っていけるようになんなさい」と唱えていた。男兄弟に囲まれて育ったが、ぜったいケンカに負けなかったのが自慢。女であるがゆえにいくつかの夢をあきらめてきた経緯もある。リブであってもおかしくない人である。
世代としてもばっちりリブの母がなぜリブでないのか、私はずっと疑問だった。そのことを質問しようと思い、わざわざ誘って見たのだった。
母はいきなり冒頭のシーンで涙した。女性たちが、心から楽しそうに、フォームなんかお構いなしに自由自在に踊るシーンである。そして、出演者たちと一緒に笑い、彼女たちのメッセージに大きくうなずいていた。
見終わったあとにした「それだけ共感できるのに、なんでリブにならなかったの?」という問いにたいする母の答えは、きわめてシンプルだった。
「リブは激しくて狂信的な集団だと思っていたの。報道がひどかったからね。今日見たような人たちだってわかってたら、リブに参加してたよ」。

【3】

リブ的な活動がフェミと呼ばれるようになった現在も、報道のあり方は変わっていない。
家族を破壊する、少子化の元凶だ、ゆきすぎた性教育をする、女を生意気にした、男をインポにする、ブスのヒステリー、スグ啓蒙しようとする、威圧的、傲慢、ヤリマン等々──フェミは便利なスケープゴートとして日々消費されている。
そらー「私フェミニストじゃないけど」と言いたくもなりますわな。考えてることはフェミとまったく一緒であっても。どんなフェミニストもあなたと同じ「普通の女」なんですよと言っても、信じてもらえないんだろうな。
うちの母のようにフェミにシンクロできる要素は十分あるのに、あるいは、すでにフェミの思考に乗っかってるのに、「私フェミじゃないけど」と平然と言ってのける女性はこの世にゴマンといると思う。ちょっと前までは、そういうい人を鈍感だとか簒奪者だとかいって毛嫌いしていたのだが、弱者切り捨てのネオリベ政策の嵐が吹きまくる昨今はそんなこと言ってられない感じ。
フェミだろうと、そうじゃなかろうと、問題が共有できるだけでありがたい。手を取りあって仲良くしていきましょう、という気持ちでいっぱいである。
近々オモシロ女子イベントが幾つか開催されます。生きるのに疲れたり、なんで女子だけこういう目に合うの? っていう疑問をお持ちだったりする女子のみなさん、一緒に行きましょうよ。フェミを名乗る必要はまったく無いからさ。
それにしても、「ちょいモテオヤジ」と「フェミニスト」は、「あの人って……」と言われる時、末尾に(笑)が付きがちな点で似ている。
(05/09/26 すこし改訂)

http://web.archive.org/web/20060223051826/http://shibuya.txt-nifty.com/blog/2005/09/post_f9d7.html

※ご参考:女性の「いきすぎてないフェミ」「フェミではないけどひどい」という保険 - Togetter 女性の「いきすぎてないフェミ」「フェミではないけどひどい」という保険 - Togetter

私は理系なので気になって仕方ないのですが

thi 2004/06/03 00:20

はじめまして。前から気になってるブログだったのですが、今日ゆっくり読めました。面白かったです。これはあなた自身への批判でしょうか?それとも懐疑論でしょうか?そんな印象を受けました。私は意見においてもっとも重要な事は「その人がどう感じるか?」だと思っています。だから、映画の評論も社会派の意見?もそれ程かわらないと思ってます。しょっぱなの問題の解釈ですが、問題は定義が重要だと思います。目的を定めない限り、答え(意見)を評価する術はないでしょう。

thi 2004/06/03 00:25

初っ端のコメントなのに、批判的で申し訳ないです。私は理系なので気になって仕方ないのですが、曖昧な言葉で構成された命題はかなり曖昧です。断定するならその証明は重要です。これが真理だ、という主張をするにはその妥当性を示す必要があります。まあ、科学の場合なんですが。ただ、曖昧な命題を真実だと主張する時、それを読み手の解釈に任せてしまうのはどうなんだろうと感じます。

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20040602#c


「理系なので」という前置きがどこに効いているのか、何から何を区別しようとしているのかわからない。
この手の前置き、意味不明なわりには 多方面で出くわすので、気になって仕方がないのですが。